ヒシャーム・マタールの小説『My Friends』は、政治的激動と個人の運命が交錯する現代社会の縮図を、3人のリビア人男性の友情を通して描き出した傑作である。1984年のロンドンでの銃撃事件から2011年のアラブの春を経て現在に至るまでの約40年間を舞台に、亡命、友情、アイデンティティの探求といった普遍的なテーマを、繊細かつ深遠に探求している。
本作の中心となるのは、カレド、ムスタファ、ホサムという3人のリビア人男性である。彼らは1984年4月17日、ロンドンのリビア大使館前での抗議活動中に起きた銃撃事件をきっかけに、それぞれ異なる人生の道を歩むことになる。この事件は実際に起きた歴史的出来事であり、マタル自身も13歳の時にテレビでこの様子を目撃している。マタルは、この現実の出来事を小説の重要な転換点として用いることで、個人の人生が歴史的事件によっていかに大きく左右されるかを鮮明に描き出している。
物語は、現在のロンドンを舞台に、カレドがホサムをセントパンクラス駅で見送った後、シェパーズ・ブッシュの自宅まで歩く夜の時間帯を軸に展開する。この設定は単なる物語の枠組みではなく、深い象徴性を帯びている。ロンドンの街並みは、カレドの内面世界を反映する鏡として機能し、彼の記憶や感情の動きを巧みに表現している。マタルは、カレドの歩みに合わせて過去と現在を行き来する複雑な時間構造を採用することで、読者を彼の内面的な旅路へと誘う。
本作の最も重要なテーマの一つは「亡命」である。マタルは亡命を単なる物理的な故郷からの離別としてではなく、より深い心理的、存在論的な概念として描いている。カレドは30年以上ロンドンに住みながらも、完全には溶け込めない疎外感を抱え続けている。彼にとってロンドンは、安住の地でも故郷でもない、永遠の「他者」としての場所なのである。この感覚は、多くの移民や難民が直面する現実を反映しており、グローバル化が進む現代社会における「帰属」の問題を鋭く問いかけている。
一方、ムスタファとホサムは、カレドとは異なる選択をする。ムスタファは2011年のアラブの春後にリビアに戻り、革命に加わる。ホサムはアメリカへの移住を決意する。これらの異なる選択は、「本当の故郷とは何か」「自己のアイデンティティをどこに見出すのか」という深遠な問いを投げかける。マタルは、これらの選択に優劣をつけるのではなく、それぞれの決断に至る過程と、その結果として生じる内面的な葛藤を丁寧に描き出している。
友情もまた、本作の中核を成すテーマである。3人の友情は、共通の経験や価値観によって深められると同時に、時には相反する忠誠心や裏切りによって試される。マタールは友情を「感情の国」と表現し、それが提供する心の故郷としての機能を強調している。しかし同時に、友情の脆さや予測不可能性も描き出している。政治的立場の違いや、人生の岐路での異なる選択が、親密だった友人同士を引き離していく様子は、現実社会における人間関係の複雑さを如実に反映している。
本作の背景となる政治的文脈も、重要な要素である。カダフィ政権下のリビア、1984年のロンドンでの銃撃事件、2011年のアラブの春といった歴史的事件は、単なる舞台装置ではない。これらの出来事は、登場人物たちの人生を直接的に左右し、彼らの選択や関係性に深い影響を与えている。特に、アラブの春とその後のリビア内戦は、3人の友人たちの運命を決定的に分かつ転換点となっている。
マタールは、これらの政治的事件を直接的に描写するのではなく、それらが個人の生活や関係性にどのように影響を与えるかに焦点を当てている。この手法により、大きな歴史の流れの中で翻弄される個人の姿が、より鮮明に浮かび上がってくる。政治と個人の関係性という、現代社会が直面する重要な問題に対して、文学ならではの深い洞察を提供しているのである。
作者自身の経験も、本作に深い影響を与えている。リビア人の両親のもとニューヨークで生まれ、トリポリとカイロで幼少期を過ごし、その後ロンドンで暮らすというマタールの経歴は、本作の登場人物たちの背景と多くの共通点を持っている。特に、彼の父親がカダフィ政権によって行方不明になったという痛ましい経験は、直接的には描かれていないものの、作品全体に深い影響を与えている。
しかし、マタールは自身の経験を単に再現するのではなく、それを普遍的なテーマへと昇華させることに成功している。彼は、個人的な経験と創作との間に適切な距離を置くことで、より広い視野から人間の条件を探求している。この点において、マタルの作家としての成熟度と力量が遺憾なく発揮されていると言えるだろう。
文体面では、マタールはジョゼフ・コンラッド、ロバート・ルイス・スティーブンソン、ジャン・リースなどの作家から影響を受けている。これらの作家と同様に、マタルも亡命や異郷での生活、人間のアイデンティティといったテーマを探求している。特に、コンラッドの作品に見られる、故郷を持たずに生きる人々や、東西の文化の衝突から生じる緊張関係への洞察は、本作にも色濃く反映されている。
また、マタールはアラビアンナイトの構成やマルセル・プルーストの詳細描写、フォード・マドックス・フォードのロンドン描写なども巧みに取り入れ、独自の文学世界を構築している。特に、プルースト的な記憶の扱い方は本作の重要な特徴の一つである。カレドの記憶は、線形的な時間の流れに従うのではなく、感覚や連想によって喚起され、過去と現在が交錯する複雑な様相を呈している。
本作の構造も注目に値する。現在のロンドンを舞台とした一晩の出来事を軸に、過去の出来事が断片的に織り込まれていく構成は、記憶や時間の非線形性を巧みに表現している。この構造は、亡命者の意識の在り方―過去と現在、ここと彼方の間を絶えず行き来する心の動き―を見事に反映している。
『My Friends』は、政治的激動が個人の人生にいかに影響を与えるかを探求しつつ、友情の複雑さと尊さを描き出した秀作である。マタールの繊細な筆致によって描かれた人物たちの姿は、読者の心に深く刻まれ、長く余韻を残すことだろう。