2024年10月1日に発売されたマルコム・グラッドウェルの新刊『Revenge of the Tipping Point: Overstories, Superspreaders, and the Rise of Social Engineering』*1は、1999年のベストセラー『The Tipping Point』*2の25周年を記念して出版された。当初は前作の簡単な改訂版を出版する予定だったが、内容を再検討した結果、続編を執筆することになったと著者は語っている。
本作は、社会的な流行現象の負の側面に焦点を当てている。著者は、以前は流行現象をポジティブな変化に活用することに関心があったが、近年では悪意のある利己的な目的のために利用される可能性について深く考えるようになった。例えば、ロサンゼルスにおける銀行強盗の流行がその一例である。1980年代から1990年代にかけて、ロサンゼルスでは銀行強盗が急増した。グラッドウェルはこの現象を、少数のスーパースプレッダー、つまりその拡散に大きな影響力を持つ人物の存在によってティッピング・ポイントを超えた結果であると分析している。具体的には、「ヤンキー・バンディット」や「キャスパー」といった数多くの銀行強盗を働いた人物や、他の若者に銀行強盗をさせて収益を得ていた人物が、流行の拡大を加速させたスーパースプレッダーとして挙げられている。また、ティッピングポイントを超えるためには、社会的な状況がその現象の拡散を助長するものであることも重要であると指摘する。ロサンゼルスでは、1970年代から1990年代にかけて銀行の支店数が急増したことも、この流行の背景にあったと考察している。
ここで、本書に登場する二つの概念を定義したい。まず「ティッピング・ポイント」とは、ある現象が小さな変化を積み重ねることで、一気に大きな変化へと転換するポイントを指している。一方、「スーパースプレッダー」とは、その現象の拡散に大きな影響力を持つ少数の個人を指す。世界的な流行現象は、多くの場合スーパースプレッダーの存在によってティッピング・ポイントを超え、急速に拡大する。スーパースプレッダーはその行動や影響力を通じて、多くの人々に影響を与え、新たな感染者を生み出す役割を果たす。
グラッドウェルは、社会的な流行現象を理解するためには、スーパースプレッダーの存在と役割に注目することが重要であると指摘している。スーパースプレッダーを特定し、彼らの影響力を抑制することで望ましくない流行の拡大を防ぐことができるかもしれない。一方、望ましい変化を社会に広めるためには、スーパースプレッダーの影響力を活用することも考えられる。例えば、新しいアイデアや製品を普及させる際に、影響力のある人物にそれを採用してもらうことで、ティッピング・ポイントを超え、急速な普及を実現できる可能性がある。
本書の中で注目に値するのは、著者が25年前に出版した『The Tipping Point』で支持していた「割れ窓理論」に対する見解の変化である。この理論は、軽犯罪を取り締まることで凶悪犯罪を抑制できるという考え方である。彼の見解の変化は、ニューヨーク市の犯罪率の推移に基づいている。前作を執筆していた当時、ニューヨーク市では「割れ窓理論」に基づく積極的な犯罪取り締まりが行われ、実際に犯罪率が減少していた。しかし、2012年以降、ニューヨーク市ではランダムに人々を選んで身体検査を行う「ストップ・アンド・フリスク」を中止し、特定の犯罪多発地域に焦点を当てた、より精密な取り締まりを行うようになった。その結果、ニューヨーク市の犯罪率はさらに低下を続けた。
これは「割れ窓理論」が前提とする、軽犯罪の取り締まり強化と凶悪犯罪の抑制の間の因果関係に疑問を投げかけるものであった。グラッドウェルは本書の中で、この新たな知見を踏まえて「割れ窓理論」への支持を撤回し、警察の戦術の変化がニューヨーク市における犯罪率の更なる減少に寄与したという見解を述べている。
また著者は、以前は犯罪問題を主に被害者の視点から捉えていたことを反省し、犯罪の発生には医療施設へのアクセス不平等など、社会構造的な要因も大きく影響していることを指摘している。これは「割れ窓理論」のように、犯罪を個人の責任に帰するような単純化された見方への批判と捉えることもできる。
さらに本書は、人間の行動を操作し、望ましい結果を達成するために社会工学がどのように利用されるかを示す事例をいくつか提示している。アメリカが陥ったオピオイド危機はその一例だ。パーデュー・ファーマ社がオキシコンチンを販売する際に、その中毒性を軽視し、医師に積極的に処方を勧めるマーケティング戦略を採用したことを指摘している。これは社会工学的な手法を用いて、人々の行動に影響を与え、特定の製品の普及を促進した例と言える。
また別の例として、ハーバード大学におけるスポーツの利用が挙げられる。グラッドウェルは、ハーバード大学が特定の文化を維持するために、スポーツを入学選考に利用していることを指摘している。この大学は他のエリート大学に比べて非常に多くのスポーツチームを抱えており、スポーツ推薦枠による入学を認めている。この推薦枠を利用することで、学力テストのスコアが低い学生でも入学できる可能性がある。また、大学側がこの推薦枠を利用することで、学力よりも家柄や社会的な地位を重視する上流中産階級文化を維持しようとしているのではないかと推測している。もちろん著者は、ハーバード大学が意図的にスポーツ推薦枠を利用して特定の学生層を入学させているとは断言していない。しかし彼の議論は、大学が望ましい集団構成を維持するために、社会工学的な手法を用いている可能性を示唆している。
「スーパースプレッダー」という表現からも分かる通り、グラッドウェルは現代社会の様々な現象を「感染」という視点から捉えている。ある特定の社会現象が、ウイルス感染のように、ある時点を境に急激に拡大し、人から人へ、地域から地域へと伝播していく性質を本書は解説している。これは一見するとわかりやすい表現であるが、複雑な社会現象を感染症の流行という単純なモデルに落とし込むことには、安易な解決策に飛びついてしまうというリスクもある。実際、「割れ窓理論」に対する著者の方針転換は、彼の提唱する考え方の限界を示すものとも言えるだろう。
『Revenge of the Tipping Point』はエンタメ性の高いビジネス書であると同時に、社会現象の複雑な因果関係を探求する思索的な書でもある。この本の受け売りで社会工学を語るのは慎みたいが、複雑化する世界を理解する上で、ひとつの視点を提供する一冊と言えるだろう。邦訳が発売されるのを期待したい。
*1:意訳:ティッピング・ポイントの逆襲:オーバーストーリー、スーパースプレッダー、そしてソーシャルエンジニアリングの台頭
*2:邦題:急に売れ始めるにはワケがある