『Martyr!』気鋭のイラン系詩人による自身の体験を投影したトラウマと再生の物語

バラク・オバマ前大統領の2024年夏リーディングリストに挙げられている『Martyr!』は、詩人としても知られるカヴェ・アクバルによる2024年のデビュー小説である。この小説はアルコール依存症の主人公が殉教者(Martyr)についての本を執筆する中での心情を描いた物語である。

主人公はイラン系アメリカ人であるサイラス・シャムス。物語は彼が研修医のために末期患者を演じるアルバイトをしている場面から始まる。サイラスは、1988年にアメリカ海軍の鑑定が撃墜したイラン航空655便に母親が搭乗しており、その死に人生を通して執着するようになる。彼は母親の死をきっかけに、死に対して強い恐怖心と喪失感を抱くようになった。また打ちひしがれた父親がアルコールに溺れていったのと同じように、息子であるサイラスもその道をたどる。そして母の死を意味あるものとするために殉教者の本を書いており、自分もまた殉教者になりたいと願っている。

彼の人生に転機が訪れるのは、ニューヨークのブルックリン美術館で展覧会を開いている末期がんを患ったイラン人女性アーティスト オーキデとの出会いだ。彼女の生き様を目の当たりにすることで、サイラスは人生に対する新しい視点を得ることになる。オーキデもまた、末期がん患者として死が間近に迫っていたが、彼女はそれを悲観的に捉えるのではなく、残された時間を精一杯生きようとしている。死を目前にしてもなお、自らの芸術を追求する姿は、詩作のスランプに陥っていたサイラスに自分自身の創作活動と真剣に向き合う勇気を与える。特にイラン系アメリカ人として自分らしく生きる彼女の姿は、二重のアイデンティティに葛藤を抱えていたサイラスに、ありのままの自分を認め、自己を受容する大切さを教えるものとなっていく。

このように本書は、幼少期のトラウマ・アイデンティティの葛藤・依存症・疎外感などが複雑に絡み合い、不安定な精神状態に陥っている主人公が、死を目前にした芸術家を前にして人生に対する新たな希望を見出す物語といえる。

著者のプロフィールを読んだり本書の出版イベントに参加した読者なら、主人公サイラスの姿が著者であるカヴェ・アクバルに重なることに気づくだろう。アクバル自身、サイラスと同じくイランで生まれ、幼い頃にアメリカに移住した経験を持つイラン系アメリカ人である。また彼自身も薬物やアルコールへの依存に苦しんだ経験を公にしており、回復後も創作活動を通してその経験と向き合い続けている。また10代の頃から詩作に情熱を注いでいるところも、物語の主人公に自身の経験が投影されていると考えるのは自然なことだ。

主人公にとって大きなトラウマとなったイラン航空655便撃墜事件は、アクバルにとっても重要な出来事である。事件当時アクバルの母はちょうど彼を妊娠しており、それを直接経験していないものの、この事件が母親の人生に大きな影響を与えたことを意識し、そのトラウマが自身にも受け継がれている可能性を感じているようだ。またこの事件を語り継ぎ、風化に抗いたいという思いもこの物語を執筆する大きなモチベーションの一つだと語っている。とはいえ彼はこの小説のタイトルに据えた”Martyr”(殉教者)という言葉自体が持つ深刻さが強調されることを望んだわけではないようだ。この小説は絶えず悲しいわけではなく、ユーモアも含まれていることを示すために、タイトルにエクスクラメーション・マークを付けたそうだ。

カヴェ・アクバルはデビュー小説『Martyr!』で、詩作で培ってきた言語感覚と鋭い洞察力を活かしながらより大きな物語を語り、登場人物たちの関係性や葛藤を通して、人間存在の本質を探求することに成功している。個人的な悲劇は、どのように歴史と社会に接続するのか。無意味な死と、意味のある死を分けるものは何か。私たちはどのように過去と向き合い、未来へと進んでいけばよいのか。著者は、これらの問いに対する明確な答えを提示するのではなく、サイラスという1人の人間の苦悩と成長を描くことで、読者が自ら考え向き合っていくことを促しているといえるだろう。