アンドレア・バイヤーニの最新作『L’anniversario(記念日)』が2025年1月に刊行され、イタリア文学界で最高の栄誉とされるストレーガ賞を受賞した。本作は、長年にわたる家庭内暴力から逃れた息子の視点で、家族との決別を描く物語である。
物語の舞台は、ローマから北イタリアのピエモンテ州、フランス国境に近い小さな町に移り住んだ中流家庭である。語り手の息子は、父、母、妹と暮らす閉ざされた家を「監獄のような密室」と形容する。この家庭では暴力が日常となり、支配と愛情が入り混じった歪んだ関係が続いていた。外からかかってくる一本の電話だけが、この孤立した世界をわずかにつなぐ手段であった。
父親は自らを被害者のように装いながら、実際には家族全員を精神的に縛りつける存在として描かれる。威圧的で感情の起伏が激しい父親の根底には、病的なまでの愛情への執着があり、それが支配の道具になっている。バヤーニはこの父の姿を通して、古い家父長制の価値観と個人的な心の問題が絡み合うことで生まれる家庭の悲劇を浮き彫りにしている。父親は家族の物語を自分だけが書けるものと信じ、ほかの家族の役割を勝手に決めてしまうのだ。
しかし、語り手はそうした家父長制を自らの代で終わらせようとしている。男性として、受け入れられない男の行動に対して「ノー」とはっきり突きつける。その毅然とした姿勢が、この物語に強い芯を与えている。
母親については、人生を諦めた女性の痛ましい姿が丁寧に描かれている。夫の期待に応えようと自分を抑え込み、存在を消すようにして生きる母親は、いつしか家の中で「透明な人」になっていた。語り手は、父の支配の陰で見えなくされた母親の存在を見つめ直そうとする。バイヤーニはインタビューにおいて、カフカの『父への手紙』のエピソードに言及し、手紙が当初母親に託されたものの、最終的に父親に渡されなかった事実を挙げている。この出来事を通じて、母親が父の権力を暗黙のうちに支える『共犯者』であった可能性が、自身の小説のテーマにも深く関わると分析している。
物語の核心は、主人公が家族との関係を絶ってから十年が経ったことを「記念日」として位置づける点にある。カトリック的価値観が根強いイタリア社会では、親子の縁を切ることは大きな禁忌とされる。しかし主人公は、職場や友人関係では別れが当たり前に受け入れられるのに、家族だけはそれを許さない社会の矛盾を鋭く指摘する。その決別は冷徹で、外科手術のような精密さをもって、家族という閉じたシステムに一線を引く行為となっている。
バイヤーニが長年アメリカに住み、創作指導をしてきた経験も本書に深く影響している。アングロサクソン圏、とりわけアメリカでは、家族との物理的な距離を置くことが比較的認められているのに対し、イタリアではいまだに家族と離れることはタブー視されている。この文化の違いが、家族のつながりに関する考察に奥行きを与えているといえる。
著者のアンドレア・バイヤーニは1975年ローマ生まれの作家、詩人、ジャーナリストで、2000年代中頃から精力的に作品を発表している。2021年にイタリアで刊行された『Il libro delle case(家の本)』が、現時点で日本語で読める唯一の作品である。現在はテキサス州ヒューストンのライス大学で創作を教えている。
『L’anniversario』は、家族の中に潜む目に見えない暴力をあぶり出し、読む者に自らの解放を問いかける小説である。家庭という小さな世界に潜む全体主義を告発し、暴き出すその誠実さは、読む人の心を痛めつつも、心を解き放つ力を持っている。主人公がイタリア社会の家族観と向き合い、決別する姿は、保守的な家庭で苦しむ世界中の多くの読者の共感を呼ぶものとなるだろう。
参考資料: