『The Safekeep』戦後オランダの田舎を舞台に二人の女性の人生が重なる

2024年5月に出版された『The Safekeep』は、ヤエル・ファン・デル・ウォウデン(Yael van der Wouden)による印象的なデビュー作である。第二次世界大戦後のオランダの田舎を舞台に、複雑な人間関係と歴史の重みを巧みに描き出した作品だ。この小説は、主人公イザベルの内面的な葛藤を中心に据えながら、戦後社会が抱える深い傷跡と向き合う様を、繊細かつ鋭い洞察力で描き出している。


物語は、亡き母の家に一人で暮らすイザベルの日常から始まる。彼女は厳格な日課と規律に縛られた生活を送っているが、その背後には戦争のトラウマと喪失感が潜んでいることが示唆される。そこに、兄ルイの新しい恋人エヴァが現れる。エヴァは、イザベルとは正反対の自由奔放な性格の持ち主であり、彼女の登場は、イザベルの秩序だった世界を大きく揺さぶることになる。エヴァの存在は、イザベルの抑圧された感情や欲望を呼び覚ましていくのだ。


著者は、イザベルとエヴァの関係性を通して、欲望、疑惑、執着といった普遍的なテーマを探求している。二人の間に芽生える官能的な関係は、単なるロマンスではなく、戦後社会の抑圧された雰囲気や、個人のアイデンティティの揺らぎを象徴するものとして描かれている。特に、イザベルの葛藤は、オランダ社会がユダヤ人の運命と向き合うことを怠ってきた歴史と巧みに重ね合わされており、個人の内面と社会の集合的記憶の関係性を浮き彫りにしているのだ。


作品の中で重要な役割を果たすのが、イザベルの母親の陶器の皿のセットである。特に、庭で見つかった壊れた皿の破片は、隠された過去や抑圧された感情の象徴として機能し、物語全体を通じて重要な意味を持ち続ける。この皿のセットを巡る謎は、イザベルの家族の歴史だけでなく、戦時中のオランダ社会の複雑な立場をも反映しており、読者に深い考察を促す。


ヤエル・ファン・デル・ウォウデンの文体は、ゴシック小説の要素と心理スリラーの緊張感を巧みに融合させている。彼女は、登場人物たちの内面描写に優れており、特にイザベルの不安定な精神状態や、エヴァの複雑な魅力を生き生きと描き出すことに成功している。また、戦後のオランダ社会の様子を、直接的な描写ではなく、登場人物たちの言動や心理を通して間接的に浮かび上がらせる手法は、読者に深い余韻を残す。


1961年のオランダ社会は、表面的な平穏さの裏に、戦争がもたらした深い傷跡を隠し持っている。物語の舞台となる田舎町は、一見すると平和な日常を取り戻したかのように見えるが、その静けさの中に、戦時中の記憶や罪の意識が沈潜しているのだ。


特に、オランダ社会のユダヤ人に対する態度は、本作を通じて繊細に描かれている。戦時中、多くのオランダ人がナチスに抵抗することなくユダヤ人を引き渡したという暗い過去が、社会の底流に存在している。戦後、ユダヤ人の財産は奪われ、彼らが去った後の空白は、まるで何もなかったかのように埋められてしまった。この集団的な忘却と無関心は、オランダ社会が自らの過去と向き合うことを避けようとする姿勢を象徴していると言えるだろう。


作者は、この社会の姿勢を直接的に批判するのではなく、登場人物たちの日常的な言動や思考を通じて浮かび上がらせている。例えば、イザベルの強迫的なまでの秩序への執着は、社会全体が抱える不安定さや罪の意識の表れとも解釈できる。また、エヴァの自由奔放な態度は、抑圧された社会に対する一種の反発や、新しい時代への希求を象徴しているとも考えられる。


さらに、本作は戦後世代の葛藤にも光を当てている。イザベルやエヴァたちは、直接的には戦争を経験していない世代だが、彼女たちもまた、前の世代から受け継いだ沈黙と罪の意識に苦しんでいる。この世代間の断絶と継承は、戦争の影響が単に時間の経過とともに消えゆくものではなく、形を変えて次の世代に引き継がれていくことを示唆している。


著者は、この複雑な社会状況を背景に、個人のアイデンティティや人間関係の揺らぎを描き出している。イザベルとエヴァの関係性は、単なる個人的な物語を超えて、戦後社会が直面する和解と赦しの可能性を探る試みとしても読み取ることができるだろう。
『The Safekeep』は、個人の物語と歴史的な出来事を巧みに織り交ぜながら、喪失、記憶、欲望、そして許しという普遍的なテーマを探求している。また、戦争の傷跡が世代を超えて受け継がれていく様を静かに告発しつつ、人間の心の奥底にある複雑な感情を丁寧に描き出すことで、読者に深い共感と内省を促す。


本作は、ダフネ・デュ・モーリアの『レベッカ』やサラ・ウォーターズの『荊の城』、パトリシア・ハイスミスの作品などと比較されることがあるが、著者は、これらの影響を受けつつも、独自の視点と感性で物語を紡ぎ出している。特に、オランダの戦後社会という特殊な背景を通して普遍的なテーマを探求する手法は、彼女の才能を如実に示すものと言えるだろう。


『The Safekeep』が提起する問いは、現代社会にも深く通じるものがある。過去の罪や悲劇とどのように向き合い、それを乗り越えていくべきか。個人の記憶と集団の記憶はどのように交錯し、影響し合うのか。そして、トラウマや喪失を経験した後で、いかにして新たな関係性や希望を見出すことができるのか。これらの問いは、戦後のオランダという特定の文脈を超えて、現代の読者にも深い示唆を与えるものだ。


ヤエル・ファン・デル・ウォウデンの筆致は、これらの重いテーマを扱いながらも、決して押し付けがましくなることはない。むしろ、彼女は登場人物たちの日常的な瞬間や些細な感情の動きを通じて、人間の普遍的な苦悩と希望を浮き彫りにすることに成功している。この繊細なバランス感覚こそが、本作を単なる歴史小説や恋愛小説を超えた、深い人間洞察の書たらしめているのだ。

The Safekeep (English Edition)

The Safekeep (English Edition)

Amazon