『跑去她的世界』妻子を亡くしたマラソンランナーがテクノロジーを使って現実逃避する中国SF小説

2024年8月に発売された『跑去她的世界』(彼女の世界へ駆ける)は、四川省出身1991年生まれのSF作家・夏桑による初の長編小説である。夏桑は現在、成都に在住している。物語の主人公は、負傷したマラソンランナーであり、彼が走るたびに亡き妻の姿を見るという体験が物語の核となる。

主人公の沈禹銘は、成都ラソンで優勝候補とされていたが、怪我により大会を途中棄権し、さらにネット上の中傷により精神的に追い詰められ、うつ状態に陥ってしまう。彼は家庭を顧みず、妻の献身的な支えにも気づかないまま、自己中心的な振る舞いを続ける。しかし、妻と子の突然の死により、彼は深い後悔と自責の念に苛まれることになる。

沈の友人であり、同じように心の傷を抱える李希は、自身が開発した実験的な薬を沈に提供する。その薬を服用すると、辛い時間をスキップできるだけでなく、走ることで亡くなった妻の姿を見ることができるという。沈禹銘はこの薬に依存し、一時的に現実から逃避しようとするが、次第にそれが根本的な解決策ではないことに気づき始める。

物語が進むと、「受難器」という人間の苦しみを吸収する装置が登場する。沈禹銘はこの装置の存在を知り、藁にもすがる思いで試すことを決意する。「受難器」は実際に彼の苦しみを吸収し、一時的な安らぎをもたらす。しかし同時に、それが本当に正しい解決策なのか、倫理的な問題はないのかという疑問も浮かび上がる。沈は自身の過去の行動や選択を客観的に見つめ直し、虚栄心や愚かさに気付かされる。そして、過去を受け入れ、再び生きる道を選ぶことになる。

当初、沈は自分の仕事中心の生活態度や、妻への無関心について反省することなく、むしろ自己憐憫に浸っていた。しかし物語が進むにつれ、彼は自分の行動の真意や、妻への本当の愛情に気づくようになる。そして自己中心的な自分を反省し、真の自己認識へと向かっていく。自己欺瞞から脱却し、真の自己と向き合うことの重要性が、本作のテーマの一つであると言える。

さらに、本作には「意識を別の時間軸に跳躍させる薬」や「人間の苦痛を吸収する受難器」といったSF的なガジェットが登場する。これらの技術は一見魅力的に映るが、科学技術の発展と人間の幸福の関係、そして倫理的な境界線について、読者に問いかける役割を果たしている。

『跑去她的世界』は明確な答えや解決策を提示するわけではないが、登場人物たちの葛藤、苦悩、再生の過程を通じて、読者自身に内省を促す作品であると言える。