2023年6月に英訳され、2024年国際ブッカー賞を受賞したジェニー・エルペンベックの最新作『Kairos』は、1980年代末の東ベルリンを舞台に、19歳の学生カタリーナと53歳の作家ハンスの恋愛関係を描いた小説である。しかし、この作品は単なる恋愛小説にとどまらない。エルペンベックは、2人の主人公の関係性を通して、東ドイツという国家の崩壊と、その後の激動の時代を鮮やかに描き出している。
タイトルの『Kairos』は、ギリシャ神話における「幸運の瞬間」を司る神を指す。この神は額に1本の長い前髪を持ち、その髪をつかむことができれば幸運をつかむことができるとされる。しかし、一度その瞬間を逃せば、二度と戻ってこない。この神話的モチーフは、小説全体を通じて重要な意味を持つ。カタリーナとハンスの関係、そして東ドイツという国家そのものが、まさにこの「カイロス」=幸運の瞬間をつかもうとする試みとその失敗を象徴しているのだ。
物語は、1986年の東ベルリンで、カタリーナとハンスが出会うところから始まる。2人は急速に親密になり、カフェでの語らい、内輪のジョーク、音楽の共有など、情熱的な恋愛関係を築いていく。しかし、その関係は次第に暴力的で残酷なものへと変質していく。ハンスの嫉妬心と支配欲、カタリーナの若さゆえの不安定さが、2人の関係を蝕んでいくのだ。
作者は、2人の視点を交互に描くことで、読者に恋に落ちたときの二重の意識を疑似体験させる。カタリーナの若々しい情熱と、ハンスの成熟した洞察力が交錯する様は、読者を物語の中へと引き込む。同時に、2人の年齢差や立場の違いがもたらす軋轢も、鋭く描き出される。
しかし、この小説の真骨頂は、個人の物語を通して、より大きな歴史的文脈を描き出す点にある。カタリーナとハンスの関係の崩壊は、東ドイツという国家の崩壊と並行して進行する。1989年のベルリンの壁崩壊を境に、2人を取り巻く世界は急激に変化していく。東ドイツの人々は、自分たちが知っている現実が消失していくのを目の当たりにする。お金の価値が下落し、メディアが解体され、これまで信じてきた価値観が否定される。作者は、この激動の時代を生きる人々の心理を、細やかな筆致で描き出している。
特筆すべきは、エルペンベックが東ドイツの日常生活を丁寧に描写している点だ。東ドイツ製品のパッケージ、カフェの雰囲気、街の風景など、細部にわたる描写が、読者を1980年代の東ベルリンへと誘う。これらの描写は単なる背景描写にとどまらず、失われゆく世界への哀惜の念を喚起する。
また、作者の筆致は登場人物の背景にも深みを与えている。ハンスは、ナチス政権下のドイツで育ち、父親がファシズムに染まっていくのを目の当たりにした経験を持つ。その後、18歳で西側から東ベルリンに移住し、社会主義の理想を追求しようとした。一方、カタリーナは東ベルリンで生まれ育ち、分断されたドイツしか知らない世代である。この2人の対比は、東ドイツという国家が抱えていた世代間の断絶や、理想と現実のギャップを象徴している。
『Kairos』は、恋愛小説としての側面と、歴史小説としての側面を巧みに融合させている。個人の情熱的な恋愛と、国家の運命が密接に結びついており、一方の崩壊が他方の崩壊を暗示するような構造になっている。作者は、感情と歴史を融合させることに長けた作家であり、この小説でもその才能が遺憾なく発揮されている。
カタリーナとハンス、そして東ドイツの人々は、それぞれの方法で幸福を追求する。しかし、作者は、幸運の瞬間をつかむことの難しさ、そしてたとえつかめたとしてもその幸運が続くかどうかはわからないという不確実性を鋭く描き出している。
エルペンベックは、この小説を通じて、東ドイツという消失した国家の「博物館」を作ろうとしたと語っている。確かに、『Kairos』は1980年代末の東ベルリンの雰囲気を見事に再現しており、当時を知る人々にとっては懐かしさを、知らない世代にとっては新鮮な驚きをもたらすだろう。しかし、それ以上に重要なのは、この小説が過去を単に記録するだけでなく、現在と未来への問いかけを含んでいるのだ。