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『Trust』誰が歴史を書き、誰が真実を語るのか――2023年ピューリッツァー賞受賞作

2022年に刊行され、2023年のピューリッツァー賞(フィクション部門)を受賞したエルナン・ディアスの『Trust』(トラスト―絆/わが人生/追憶の記/未来―、井上里訳、早川書房、2023年)は、20世紀前半のアメリカを舞台に、富と権力、そして「真実」とは何かを問い直す長編小説である。本作は単なる金融小説でも歴史小説でもなく、同じ出来事を異なる視点から描いた四つの文書によって構成される実験的な作品だ。読者は断片的な証言をつなぎ合わせながら、みずから真実を探ることを求められる。

物語は、1937年に出版された架空のベストセラー小説『絆』から始まる。そこでは、ウォール街で巨万の富を築いた実業家ベンジャミン・ラスクと、貴族的な家庭出身の妻ヘレンの人生が描かれる。1929年の株価大暴落によって多くの人々が破産する中、ラスクだけは莫大な利益を手にする。一方、知的で内向的なヘレンは慈善活動と芸術支援に没頭するが、次第に精神を病み、スイスの療養所で実験的な治療を受けた末に亡くなる。エディス・ウォートンやヘンリー・ジェイムズを思わせる古典的な文体で綴られたこの物語は、読者に「完成された物語」という幻を提示する。

しかし第二部『わが人生』では、その小説のモデルとなったとされる実業家アンドリュー・ベヴル自身が執筆した未完の自伝が登場する。冷酷な投機家として描かれ、妻を弱々しい女性として扱われたことに強く反発した彼は、自らの人生を書き換えようとする。財産は公共への貢献の結果であり、妻ミルドレッドは家庭的で献身的な女性だったと主張するものの、原稿に残された編集者の注釈と無数の未完成箇所が、かえって彼の語りの不完全さを際立たせる。

第三部『追憶の記』では、ベヴルに雇われて自伝のゴーストライターを務めたアイダ・パルテンツァの回想録が語られる。イタリア系アナーキストの家庭に育った彼女は、べヴルの語りを文章化する仕事を通じて、彼が妻ミルドレッドの真の姿を歴史から消し去ろうとしているのではないかという疑念を深めていく。年月を経た後、博物館となったべヴル邸でミルドレッドの日記を偶然発見したとき、それまで信じられてきた物語は大きく揺らぎ始める。

最終部『未来』では、スイスの療養所で死を目前にしたミルドレッド自身の日記が読者に示される。そこで初めて明らかになるのは、歴史の表舞台では夫だけが成功者として記憶される中、彼女が果たしていた真の役割だ。それまでの三つの物語を根底から覆すこの視点によって、「信頼できる語り手」などというものは最初から存在しなかったことが示唆される。

本作が描く最大のテーマは、莫大な資本が現実そのものを作り替える力を持ち得るという点にある。権力を持つ者は出来事だけでなく、その解釈や記録までも支配し、自らに都合の良い歴史を築き上げることができる。四つの文書を読み比べる中で読者は、一つひとつの証言が客観的事実ではなく、それぞれの利害や欲望によって形作られていることを否応なく悟らされる。

同時に本作は、アメリカ経済史の陰で女性たちの功績がいかに見えなくされてきたかを問う作品でもある。男性によって語られた物語の中では、ミルドレッドは病弱な妻あるいは理想化された家庭人としてしか描かれない。しかし彼女自身の言葉を通じて、その知性、主体性、経済的な洞察力が初めて明らかとなり、歴史から消された女性の声が回復されていく。

タイトルの『Trust』にも複数の意味が込められている。「信頼」という人間関係の意味だけでなく、金融制度におけるトラスト(企業結合体)、さらには読者が語り手をどこまで信頼できるかという文学的な問いまでを含む。物語が文字として記録された瞬間、それは事実ではなく語り手の意図や権力によって形を変える可能性がある——本作はそのことを、四層の構造そのものによって証明して見せる。

著者が本作を「今」世に問うた背景には、1920年代のアーカイブと執筆当時の現代社会との間に見出した、驚くべき歴史の共鳴がある。トランプ政権下で執筆を進める中でディアスは、孤立主義、富裕層への大幅減税、保護主義的な関税、特定国からの移民制限、規制緩和が生んだ投機と格差といった要素が、1920年代の資料と現代のニュースの両方に共通して現れていることに衝撃を受けた。ハーディングやクーリッジの時代から1980年代のレーガン経済学を経て現代に至るまで、保守的な経済ドクトリンがいかに一貫しており、現実の変化に対して「不浸透」であるかを彼は指摘する。この100年間の連続性を描くことが、現代の経済状況を理解する上で不可欠だと彼は考えた。

またディアスは、現代において「現実がコモディティ(商品)化されており、事実上売りに出されている」状況に強い警鐘を鳴らす。個人の権力の尺度が「いかに製造された現実を他者に押し付けられるか」で測られるような歪みを、歴史という斜めの角度から照射しようとしたのだ。「アメリカの金融の歴史を読み始めたとき、それが完全に男の世界であり、女性が一人もいない世界であることが明白になり、衝撃的だった」と彼は語る。作中に反映された富豪たちの尊大なトーン——「私の仕事は常に正しいことだ。もし間違っていたら、あらゆる手段を講じて現実を曲げ、私の間違いが間違いでなくなるようにする」——は、自らを神話化しようとする者たちの論理を鋭く写し取っている。

著者エルナン・ディアスは1973年にアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれた。幼少期に軍事政権を逃れてスウェーデンへ移住し、民主化後にアルゼンチンへ帰国。ブエノスアイレス大学で学んだ後、キングス・カレッジ・ロンドンで修士号、ニューヨーク大学で博士号を取得した。現在はブルックリンを拠点に活動し、万年筆による手書きで作品を執筆することでも知られている。デビュー作『In the Distance』はピューリッツァー賞最終候補となり、『Trust』によって世界的な評価を確立した。

本作は映像化も進められており、監督はトッド・ヘインズ、主演・製作総指揮はケイト・ウィンスレットが務めるリミテッド・シリーズとして企画されている。エルナン・ディアス自身もエグゼクティブ・プロデューサーに名を連ねており、当初はHBOでの放送が予定されていたが、のちにNetflixへとプラットフォームを移すことが報じられた。2025年時点では法的手続きなどの影響で制作が遅れており、公開時期は未定とされている。それでも、重層的な物語構造が映像でどのように表現されるのか、大きな注目を集めている。

『Trust』は、セルフメイドマンというアメリカ神話を解体すると同時に、歴史とは誰によって書かれ、誰の声が消されてきたのかを鋭く問いかける作品である。ベンジャミン、アンドリュー、アイダ、そしてミルドレッドという、誰一人として完全には信頼できない語り手たちの間で、読者はみずから真実を読み解く「探偵」にならざるを得ない。資本主義が支配する社会において、物語がいかにして通貨(カレンシー)となり、富がいかにして歴史を私物化するか——格差と情報の不透明さが深まる現代において、この問いはいまだ答えを持たない。

参考資料:

youtu.be

Reality Is Something to Be Read: A Conversation with Hernan Diaz | Los Angeles Review of Books

Trust by Hernan Diaz review – unreliable tales of a Manhattan mogul | Fiction | The Guardian