2023年にフランスで刊行され、2025年に英訳されたマティアス・エナールの長編小説『The Deserters』(原題:Déserter、脱走兵)は、ゴンクール賞受賞作家として知られる著者が描く、戦争と歴史、そしてイデオロギーが人間の魂に刻み込む痕跡をテーマとした作品である。本作は、対照的な二つの物語が互いに反射し合う構造となっており、2026年国際ブッカー賞のロングリストに選出されたことでも注目を集めている。
第一の物語は、場所も時代も特定されない地中海沿岸を思わせる風景を舞台に、名もなき兵士がある現代の戦争から脱走する過程を描く。汗と恐怖と叫びに満ちた戦場から逃れた彼は、幼少期を過ごした山中の小屋へと向かう。その途上、暴力から逃れようとする一人の女性と、傷ついたロバに出会う。この章は聖書を思わせる寓意や象徴に満ち、宗教的あるいは叙事詩的な響きを帯びている。読者を戦争の生々しい現実へと引きずり込みながらも、暴力に満ちた世界において他者との絆や慈しみがいかに再生可能なものかを静かに問いかける。
第二の物語は、架空の東ドイツの数学者パウル・ホイデーバーの生涯を軸に展開する。彼はブーヘンヴァルト強制収容所の生存者であり、筋金入りの反ファシストとしてドイツ民主共和国(GDR)に最後まで忠誠を尽くした人物である。物語の中心となるのは2001年9月、ベルリンとポツダムを結ぶハーフェル川を航行するクルーズ船「ベートーヴェン号」上で開催されるホイデーバーを追悼し、功績を称える国際会議の場面である。語り手は娘のイリーナであり、彼女は両親の人生と政治的選択を理解しようと試みる。しかしその時間は、同時多発テロという現実の惨事によって引き裂かれる。「歴史の終わり」という楽観的幻想は崩れ去り、歴史がなお暴力的に回帰することが突きつけられるのである。
本作の核にあるのは、歴史と科学の交錯である。ホロコーストと9・11という一見交わることのない歴史的事件のあいだに、目に見えない引力が働いているかのように物語は進む。ホイデーバーにとって数学とは「希望のもう一つの名」であり、ブーヘンヴァルトの地獄を生き延びるための純粋抽象の避難所であった。だが同時に、本書は戦争がもたらす荒廃、忠誠と裏切り、覚醒と盲信、希望と生存の緊張関係をも描き出す。現代の破局のなかで自己とは何か、そして何が残りうるのかという問いが、二つの物語を通じて反復されるのである。
エナールは膨大な知識と鋭敏な感受性を併せ持つ作家である。ホイデーバーをめぐる章では古典的な散文や書簡形式が用いられる一方、脱走兵の章ではサミュエル・ベケットを想起させる詩的で凝縮した文体が展開される。その文体的振幅そのものが、理性と混沌、抽象と肉体の対比を体現している。
本作は当初、パウル・ホイデーバーという架空の数学者の生涯を軸にした歴史小説として構想されていた。しかし2022年のロシアによるウクライナ侵攻を受け、物語の形を変えることを決断する。その結果、脱走兵の物語が書き加えられ、知的な抽象化と身体的な苦痛が対をなす現在の構造が生まれたという。
著者のマティアス・エナールは、1972年にフランスのニオールで生まれた。ペルシャ語とアラビア語を学び、中東地域に長く滞在した経験を持つ。2008年に出版された、わずか一文で構成された五百ページの長編『Zone』で世界的な注目を集め、2015年に『Boussole』でフランス最高の文学賞であるゴンクール賞を受賞した。彼の作品は一貫して、ヨーロッパとオリエントの関係、歴史の考察、そして人間の条件をテーマとしており、現代フランス文学において最も重要かつ野心的な作家の一人と目されている。
本作の翻訳を手がけたシャーロット・マンデルは、フランス文学の翻訳において第一人者として知られる。コネチカット州に生まれ、これまでにマルセル・プルースト、モーリス・ブランショ、ジャン=リュック・ナンシーなど、五十冊以上の小説、詩、哲学書をフランス語から英語へと翻訳してきた。エナールの『Boussole』の英訳では国際ブッカー賞の最終候補に残り、2018年には全米翻訳賞を受賞している。また、フランス政府から芸術文化勲章(シュヴァリエ)を授与されるなど、その功績は国際的に高く評価されている
『The Deserters』は、暴力の永劫回帰と、みずからの歴史によって解体され続けるヨーロッパの姿を静かに見据えた作品である。本作が問うのは、歴史の「終わり」などというものが果たして可能なのか、ということだ。二つの物語が精緻に響き合うなかで、その幻想は確瓦解していく。エナールはここで、歴史の暴力に抗うすべての脱走者たちへの深い共感を刻みつけているといえるだろう。
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参考資料:
THE DESERTERS | Kirkus Reviews
The Deserters: Longlisted for the International Booker Prize 2026 | The Booker Prizes


