世界経済の中心には、しばしば国家や企業ではなく、一つの通貨が据えられてきた。その通貨がいかにして支配的地位を獲得し、いかなる条件のもとで揺らぎうるのかを問うことは、現代の権力構造そのものを読み解く試みでもある。
2025年3月に刊行されたポール・ブルースタインによる『King Dollar: The Past and Future of the World’s Dominant Currency』(キング・ダラー――世界最強通貨の過去と未来)は、米ドルがいかにして「王」の座に就き、なぜいまだその地位を維持しているのか、そしてその支配がいかなる危うさを内包しているのかを、歴史と現実を往復しながら描き出す一冊である。長年にわたり国際金融を取材してきた著者は、ドルの終焉を予言する言説が繰り返し現れては消えてきた事実を踏まえつつ、その覇権が容易には崩れない構造的理由を明らかにしている。
まず本書が強調するのは、ドル覇権を支える複数の基盤である。中でも決定的なのは、米国債市場の圧倒的な規模と流動性である。金融危機のたびに世界中の投資家がドルへと逃避するのは、巨額の資金を動かしても市場が崩壊しない唯一の「安全資産」がそこに存在するためである。また、Fed(連邦準備制度)は単なる国内の中央銀行にとどまらず、国際的な「最後の貸し手」として機能してきた。2008年の金融危機や2020年のパンデミック時に見られた通貨スワップは、ドル供給を通じて世界経済を下支えする装置であった。さらに、ドルは英語のように「皆が使うから使われ続ける」というネットワーク効果を持ち、貿易決済や国際融資、外貨準備の中心に据えられている。そしてこの全体を支えているのが、法の支配と制度への信頼である。契約が守られ、中央銀行の独立性が維持されるという前提が、ドルへの信認を裏打ちしている。
しかし本書は、ドルが単なる経済的インフラではなく、政治的な武器としても機能している現実を見逃さない。アメリカはその優位性を利用し、制裁を通じて他国に強い圧力を加えてきた。ニューヨークに拠点を置く決済システムCHIPSは国際ドル取引の大半を処理しており、このネットワークから排除されることは事実上の金融的死刑宣告に等しい。米国はこれをテロとの戦いやイラン、ロシアへの対抗手段として活用してきた。また、米国は外国企業に対しても二次的制裁を課し、ドル圏からの締め出しをちらつかせることで、自国の外交方針への従属を迫る。このような制裁の行使は、ドル覇権の影の側面として描かれている。
一方で、ドルに挑戦する通貨や仕組みも検討されるが、いずれも決定打を欠いている。ユーロは有力な代替候補であるものの、単一の安全資産を持たない構造的弱点を抱えている。人民元は中国の経済規模を背景に存在感を増しているが、資本規制や法制度への不信が国際化の障壁となっている。暗号資産についても、国家による制度的裏付けを欠く以上、基軸通貨の役割を担うには不十分であると著者は見る。
それでもなお、本書が最も強く警告するのは外部からの挑戦ではなく、アメリカ自身による自己毀損の可能性である。著者はスパイダーマンに登場する有名な一節「大いなる力には大いなる責任が伴う」という格言になぞらえ、ドル覇権がきわめて脆い前提の上に成り立っていることを指摘する。中央銀行の独立性を損なう政策、法の支配を軽視する動き、あるいは同盟国に対してまで過度な経済的圧力を加える振る舞いは、世界に代替手段を模索させる契機となりうる。さらには、国債保有者に損失を強いるような無謀な政策が現実化すれば、国際金融秩序そのものを揺るがす危険もある。
本書を執筆したポール・ブルースタインは、40年以上にわたり経済・金融の第一線で活躍してきたジャーナリストである。ウィスコンシン大学を卒業後、オックスフォード大学にローズ奨学生として留学した経歴を持つ。ウォール・ストリート・ジャーナルやワシントン・ポストの経済記者として長年キャリアを積み、日本を含む世界50カ国以上で取材を行ってきた。ビジネス・ジャーナリズムの最高峰であるジェラルド・ローブ賞を受賞するなど、その筆致は専門家から高い評価を得ている。これまでにアジア通貨危機を扱った『The Chastening』(IMF〈上〉〈下〉―世界経済最高司令部20ヵ月の苦闘、東方雅美訳、楽工社、2013年)、アルゼンチンの経済崩壊を描いた『And the Money Kept Rolling In』、IMFとユーロ圏危機の関係を記した『Laid Low』など、国際金融危機の舞台裏を鮮明に描き出す著作を数多く世に送り出している。
『King Dollar』は、ドルの現在地を客観的かつ精緻に分析した第一級のノンフィクションである。本書が示すのは、ドルの王座が消去法的な選択の産物であるにとどまらず、米国が長年かけて築き上げた制度的・歴史的インフラの強固さに根ざしているという事実である。同時に著者は、その覇権が決して自明のものではなく、賢明な政策とグローバルな安定への責任によってはじめて維持されるものだと説く。強大な通貨を持つ国家は、その力に見合った節度と責任を問われる。ドルの「過去」を深く理解し、その「未来」を冷静に見据えるために、本書はいま読まれるべき一冊である。
参考資料:
Book Excerpt: King Dollar - Milken Institute Review
King Dollar - The Past and Future of the World’s Dominant Currency | Book reviews | SPE
Paul Blustein on the Rise, Dominance, and Current Challenges to King Dollar | Mercatus Center


